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Osaka Doyu-Kai

vol.107

わが街探訪

戦い敗れた親子忠孝の 物語に涙する
〜小楠公御墓所と四條畷神社〜

Profile

大阪東ブロック/大東四條畷支部

株式会社山田製作所

山田 雅之

JR学研都市線の四条畷駅を降りて、西側の商店街を抜けたところに小楠公御墓所があります。墓所の入り口には右に「忠」、左に「孝」を刻んだ石柱が あり、そこを抜けると雰囲気が一変します。

ここは南北朝時代、南朝の軍として四條畷の戦い で戦死した楠木正行(くすのきまさつら)の墓であります。その父親である楠木正成(くすのきまさしげ) が「大楠公(だいなんこう)」といわれるのに対し、 父の遺志を継ぎ戦った正行は小楠公(しょうなんこう)と呼ばれるようになりました。

墓標と楠の木

 

墓所内にある正行が戦死した時より100 年後に植 えられたといわれる楠の木は、現在大阪府より天然 記念物に指定されています。その楠の木に挟まれる ように立つ墓標は明治時代に建てられ、大久保利通がその名を記しました。

四条畷駅を降り、小楠公御墓所を背に東側に行くと、楠木正行を主祭神とした四條畷神社があります。 楠木正行は現在も地元四條畷市民や隣接している大東市民から「楠公さん(なんこうさん)」 と親しま れ、地名にも使われています。

案内板

 

太平記に伝えられる四條畷の戦いの古戦 場に、時代は500年も下ってなお墓標が建 てられたという親子忠孝の南朝哀史です。 昭和15年は紀元2600年を記念する年で、 日本中でお祝い行事が開かれたとか。数え て今年で紀元2684年となります。初代神 武天皇の神代の昔から天皇制の継承は世界 に類を見ない長さに驚かされます。

その歴史の中に朝廷が南北朝ふたつに分 かれた時代があります。建武の新政を興し た後醍醐天皇は、足利尊氏の離反に合い、 吉野に逃れ南朝を開きますが、その3年後 に崩御。三種の神器が戻され統合するまで 50年余りの分断の歴史が刻まれました。

(編集 西岡)