Profile
中河内ブロック/東大阪第二支部
株式会社オーシン
石田 渉
東大阪の伸線業が生駒山の水車から始まったことをご存知でしょうか?時は江戸の末期、河内木綿の産地として河内平野に木綿畑が広がっていたころまでさかのぼります。
枚岡では繰糸作業・精米・油絞りに使っていた水車動力を利用して、銅・真鍮(しんちゅう)などの伸線業が始まり「線屋の街」として発展するなかで、辻子谷では44 輌、豊浦谷では36 輌もの水車が作られました。
水車
辻子谷水車郷
大正の大阪電気軌道(現近鉄奈良線) の開通に伴う電力の普及とともに、水車は次第に姿を消しましたが、現在でも胡粉・薬種粉末の製造に用いられていた水車を復元したものを見ることができます。場所はおなじみホテルセイリュウから、石切神社より更に上った先にあります。傾斜があるため少々大変ですが、東大阪の街を一望でき、歴史の流れの中にいることを感じることができるでしょう。
目まぐるしく変化する現代社会の中で、今あるものをどのように残し、伝えていくべきか。未来が現在からのひとつながりであるならば、過去から現在へのつながりをひもとくことで見える未来もあるかもしれません。
(引用)出水力(1989)『水車の技術史』思文閣出版
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森の水車の曲から連想すると、水車ってもっと小さく可愛らしいものだったような気がします。それは玄米をついたり、粉ひきをしたりするもので、今回ご紹介の水車は迫力のある大きさです。裏の建物と比べていただいても分かるように、こんな大きな水車が東大阪の産業を担っていたそうです。
木づくりであるのに、今にその雄姿を残しているとは、保存に携わった方のご苦労がしのばれます。今でこそ当たり前の、スイッチを入れたらすぐに使える電力は、昔このように水車動力で賄われた、先人の知恵を見る思いです。それも豊富な水があってこそ。限りある資源の大切さを改めて感じました。
(編集 西岡)